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日露戦争
1904(明治37年)2月6日に開始された日本とロシアとの戦い。
この二国間の戦いは朝鮮を巡るものだった。
明治維新によって日本は近代国家の道を歩み始めた。そんな日本の最大のテーマは朝鮮を植民地にし、中国大陸進出の足掛かりを掴むことだった。
理由の一つは市場としての魅力、もう一つは鉱物資源と農産物の供給地としての魅力だった。
1894年4月に勃発した日清戦争の講話条約において、旅順・大連を含む遼東半島と台湾、澎湖島の割譲、さらに2億両の賠償金を獲得した。
しかしこの講話条約に対してロシアが口を挟んできた。
ロシアは既に建設中のシベリア鉄道を延長して満州は勿論朝鮮もその勢力下に置こうとしていた。
さらにロシアは凍らない港を欲していた。その目標として旅順を狙っていたロシアにとって、日本の勝利は衝撃だった。
そこでロシアは下関条約締結の一週間後、ロシアはドイツ・フランスとともに日本に対して「遼東半島の永久所有権を放棄せよ」と迫ってきた。
もし勧告が容れられない場合は重大な決意があると、武力行使もほのめかしてきた。
いわゆる露・仏・独「三国干渉」である。
清国に勝ったとはいえ、日本にはこれら三国に対抗する軍事力も経済力もない。
妥協の余地なしと判断した日本は清国に遼東半島を変換し、屈辱の涙を飲んだ。
しかしロシアは日本が返還した遼東半島を清から租借してしまった。
日本はロシアに対して「臥薪嘗胆」を胸に、復讐を誓ったのだった。





開戦前夜
1902(明治35)年1月30日、小村寿太郎外相は日本にとって念願の日英同盟協約を締結した。
英国はもともと「名誉ある孤立」と自他ともに認める国で他国と同盟を結ぶことはなかったのだが、ロシアの極東進出を快く思っていなかった英国は日本との同盟締結に踏み切った。
この日英同盟の締結は、満州から撤兵をしないロシアに大変な圧力となった。
日英同盟を背景に日本はロシアに対して交渉を進めたが、ロシアは誠意ある対応を見せない。
日本はついにロシアとの開戦を決意した。



仁川沖海戦(1904(明治37)年2月5日〜2月9日)
佐世保港で待機していた東郷平八郎率いる連合艦隊に大本営からの出撃命令が届いたのは2月5日午後5時だった。
連合艦隊は佐世保を出港、旅順港口をめざした。
途中、瓜生外吉少将の第四戦隊は主力と分かれて韓国の仁川港に向かった。
瓜生戦隊の任務は3隻の輸送船に乗る陸軍の先遣隊の仁川上陸を支援するとともに、中立港の仁川に停泊するロシアの巡洋艦「ワリャーグ」と砲艦「コレーエツ」を撃沈することだった。
2月8日夕刻、仁川港に入った瓜生戦隊は陸兵の上陸作業を徹夜で行った。
翌早朝、瓜生少将はロシアの二艦に「二月九日正午までに仁川港を退去しなければ戦闘もじさず」という旨の通告書を突き付けた。公海に誘い出し、これを撃沈するためである。
ニ艦は日本が指定した正午30分前に港外に向かった。
互いの艦の距離が7千メートルに近付いた時、日露両軍はほぼ同時に砲撃を開始した。
しかし日本軍の圧倒的な火力の前にロシアの二艦は仁川港に引き返し、それぞれ自沈したのだった。

一方、旅順に向かった連合艦隊主力は、まず駆逐隊が2月8日の夜に旅順港外泊地への進入に成功した。
そして9日の午前零時28分、停泊していたロシア太平洋艦隊主力に魚雷攻撃を開始した。
攻撃は奇襲となりロシア艦隊は大混乱に陥った。
しかし日本軍は16発の魚雷を発射し、3発が命中したものの撃沈艦はなかった。



旅順口閉塞作戦(1904(明治37)年2月24日〜3月27日)
日本艦隊の攻撃を受けた旅順ではロシアのアレクセーエフ総督が会議を開き、ヨーロッパからの増援艦隊(バルチック艦隊)が到着するまでは、旅順の戦艦は出来るだけ温存することを決めた。
このロシアの消極策は日本にとってはまずい。ロシア戦隊を壊滅する機会が得られないからだ。
そこに出てきたのが「旅順口閉塞作戦」だ。これこそアメリカに留学した秋山真之がアメリカとスペインの戦争においてその目で見てきたものである。
敵艦隊が外洋に出てこないのなら、港の入口を塞いで港内に閉じ込めてしまおうというものである。
作戦は、古くなった貨物船などに決死隊員が乗り込み、旅順口に進入してこれを爆沈、隊員は同行の水雷艇に移乗して脱出するというものだ。
2月24日最初の閉塞作戦が実施された。
総指揮官有馬良橘中佐に率いられた5隻の閉塞隊は、午前4時15分、一挙に突入を図ったが、港口両側の要塞から探照灯の一斉照射を受けた。さらに山上砲台も砲撃を開始した。
指揮官も操舵手も目的地を正視出来ない。
そのため各閉塞船は進路を誤り、全船を目的の場所に沈めることが出来なかった。

旅順口を塞ぐことは出来なかった東郷長官は連合艦隊主力を率いて再び砲撃を開始。
だがロシア艦隊に決定的打撃は与えられず、望みは第二次閉塞作戦に託された。
二回目の閉塞作戦には4隻の海運運送船が用意された。有馬中佐が再び総指揮官になり、3月27日午前2時30分に作戦は開始された。
第一回目と同じく探照灯が照射され、砲撃が開始された。
しかし4隻の閉塞船はなんとか航路を妨害出来る位置で自沈したり、爆沈された。
この際広瀬武夫少佐指揮の「福井丸」も自沈しようとした。
指揮官付の杉野孫七上等兵曹は、爆薬に点火しようと船艙に駆け降りた。
その時敵の魚雷が船腹に命中、「福井丸」は沈み始めた。
広瀬少佐は総員退船を命じ、自分は杉野兵曹を捜しに船内を走った。
「杉野!杉野!」
返事はない。広瀬少佐は涙ながらにカッターに乗り移った。
その直後、敵弾が広瀬少佐の頭部を直撃した。広瀬の姿は跡形もなく消え、艇内には僅かな肉片だけが残された。
のちに広瀬少佐は中佐に特進し、「軍神」として国民に広くアピールされた。
そして杉野兵曹の捜索の場面は歌にも唄われ、歌詞の「杉野は何処、杉野は何処」の一節は流行語にもなった。
犠牲の多い第二回閉塞作戦だったが、港口を塞ぐことは出来なかった。



鴨緑江渡河作戦(1904(明治37)年4月21日〜5月6日)
韓国に上陸した第一軍は北進した。
当座の目的は韓国と清国の国境である鴨緑江対岸に布陣しているロシア軍を駆逐することである。その間に遼東半島への上陸を予定している第二軍の作戦を容易にするためである。
全軍が合流した第一軍は4月21日までに鴨緑江右岸に展開を終えた。鴨緑江をはさんでロシア軍の根拠地である九連城の正面に近衛師団、右翼に第十ニ師団、左翼に第二師団を布陣した。
攻撃はロシア軍が手薄と見られる右翼の第十ニ師団から開始。
ロシア軍主力を上流に引き寄せて、正面の近衛師団と下流の第二師団の渡河を容易にするという作戦である。
渡河一番手を担う第十ニ師団は、4月19日から30日未明なかけてわずか1日で鴨緑江上流に230メートルの架橋を完成させ、午前3時に渡河を開始して夜明け前にはほぼ全部隊が渡り終えた。
第十二師団が渡河に成功した頃、近衛、第二師団も架橋を開始した。
九連城のロシア軍砲兵隊が砲撃を加えてきたが、日本軍が反撃すると沈黙してしまった。
5月1日、鴨緑江の対岸に渡った近衛師団と第二師団は総攻撃に移った。
思わぬ日本の攻勢に、ロシア軍は九連城が包囲されると大砲類を破壊して山中に逃げ込んだ。
こうして第一軍の諸戦は大勝利で終わった。



遼東半島上陸作戦(1904(明治37)年4月13日〜5月13日)
第一軍が鴨緑江で陸軍初の勝利を確実にしていた時、日本連合艦隊も必勝を期して旅順口に艦船を向かわせていた。三回目の旅順口閉塞作戦である。
旅順にあるロシアの太平洋艦隊は、3月に名将として名高いマカロフ中将を指令長官に迎えて積極行動を起こすようになっていた。
しかし4月13日マカロフ中将の乗る「ペトロパブロフスク」が、日本軍が敷設した機雷に触れて中将もろとも轟沈してしまい、それ以後ロシア艦隊は再び港内に閉じこもり、艦艇の温存策をとってきた。
こうした状況下、奥大将率いる第二軍に遼東半島への上陸命令が出された。
上陸地点は大連湾の張家店に近い塩大澳とされた。
もし上陸作戦中に旅順の敵艦隊が出動すれば、第二軍は壊滅的打撃を被る。なんとしても敵艦隊を旅順港に封じ込めておく必要があった。
作戦は5月2日夜に実施された。海上は風波が激しく、12隻の閉塞船は間断なく揺れる。
総指揮官の林三子雄中佐はこのまま作戦を遂行すれば閉塞後の隊員の収容が困難と判断、作戦中止を決定した。しかし隊列を乱している上に夜間のために中止命令は全船に届かず、二、三の船を除き大半が旅順口に向かった。
5月3日未明、旅順港口に近付いた閉塞船はロシアの哨戒艦と沿岸砲台から砲撃され、次々と撃沈や自沈に追い込まれ、失敗に終わった。
閉塞失敗を知る由もない第二軍は予定通り上陸作戦を開始した。
5月5日早朝、上陸作戦の先陣を担う佐世保海兵団一千余名が上陸を開始。
ロシア軍も日本軍の上陸を阻止するために部隊を派遣したが、日本軍のあまりの大部隊に反撃をあきらめて引き返した。
4万人近い第二軍はロシア軍の反撃もなく、5月13日頃までに上陸を終了した。
増援部隊の騎兵第一旅団(秋山好古旅団)、第五、第十一師団も月末にはすべて上陸したのだった。



金州・南山攻略戦(1904(明治37)年5月24日〜5月26日)
遼東半島に上陸した第二軍の目的は鴨緑江を越えてくる第一軍に呼応して遼陽に迫ることである。
しかし上陸地南西の金州城とその南の南山にはロシア軍が要塞を構えているため、まずこれを撃破しなくてはならない。
5月24日、奥軍司令官は全軍に攻撃命令を発した。
第一師団が中央正面から、第三師団は左翼から進撃し、金州城を包囲した。
暴風雨に攻撃は難航したが、26日未明に東西両門をほぼ同時に爆破し、日本軍は金州城に突入、占領した。
城内のロシア軍守備隊約3百名は南門から脱出し、主力が布陣する南山に退却した。
南山の戦いは砲撃戦から始まった。
26日午前8時、約3時間にわたる砲撃戦は、数に勝る日本軍が勝利。
砲撃戦の次は歩兵部隊の前進突撃であるが、歩兵の進軍は難渋を極めた。
コンクリートで固められたロシア軍の永久堡塁の要所には新兵器である機関銃が設置されていた。
身を隠す障壁もない日本兵は狙い撃ちにされる。
死傷者は続出し、砲弾が底をつき始めた。
午後3時、奥軍司令官は全軍に突撃命令を下し、歩兵たちはロシア軍陣地に決死の突撃を繰り返した。
海軍の砲艦による金州湾からの援護砲撃もあり、戦いは南山を占領した日本軍の勝利で終わった。
ロシア軍は次の防御線を旅順に定め、夜の山路を退却していった。
第二軍は5月23日には無防備の大連も占領した。
こうして日本軍はロシア軍の旅順と遼陽の連絡路を遮断することに成功。
その旅順攻略には新しく第三軍が編成され、第二軍は目的の遼陽をめざして北進を開始した。









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