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日露戦争時連合艦隊作戦主任参謀長海軍少佐(→中佐/旅順港外封鎖中に昇進)
「T字戦法」と「七段構えの戦法」によってロシアのバルチック艦隊をやぶった張本人。
容貌・素行については
「背はあまり高くないが、体はガッチリ締まっていて、顔は文字通りの炯眼柳眉。眉が濃く、口が締まり、みるからに俊敏精悍の相貌をあらわしていた」
「辺幅を飾らず、細行を顧みず、挙措極めて無頓着で、むしろダラシがないという方が近い」
真之は炒り豆が大好物で、いつもポケットに入れた炒り豆を出しては口に放り込んでいた。それも母親の炒り加減でなくては駄目だったため、妻の季子夫人は真之の母お貞から炒り方を教わったという。
真之は文章家として知られるが、言葉も綺麗な人で、部下を呼ぶのに「お前、貴様」というのが普通であった中で、真之は必ず相手を「あなた」と呼び、ものを命ずる際には「ください」をつける人であった。そして仕事のあとには「ありがとう」の言葉を忘れなかった。
また、部下の建言を重んじ、もし実行して失敗しても「お前では駄目だ」と頭からしりぞけたりするることなく、失敗の原因について説明してやった。
このため、真之は部下から深く推服、尊敬されていた。



秋山真之は1868年松山藩(伊予)士の父兵五郎久敬と母お貞の間に五男として生まれた。
真之が生まれた当時ますます貧窮していた秋山家は、生まれたばかりの真之を寺に出そうとする。
しかし当時十歳であった兄の好古(秋山家三男。「日本騎兵隊の父」として日露戦争では秋山支隊長陸軍少将としてロシアのコサック騎兵を撃破)が「赤ん坊をな、お寺にやっちゃ、そら、いけんぞな。おっつけウチが勉強してな、お豆腐ほどのお金をこしらえてあげるぞな」と説得し、両親は思いとどまる。
後々この話を聞かされた真之は「兄さんのためなら命もいらん」と思っていたという。

真之は小柄ながら、色が黒く、走るのが速い腕白の餓鬼大将であった。
反面、幼い頃から俳句や漢詩を嗜む文学的才能の溢れる子供だった。
やがて陸軍士官学校へ入った兄・好古の支援で、真之は松山中学へ入学した。ここで真之は正岡子規と出会う。
真之は子規とともに文学の道を二人で究めようと誓い合う。
そして子規とともに大学予備門に合格した真之だったが、好古の給料に学資と生活の面倒をみてもらい続けることに疑問を感じ始める。
好古に相談した結果、真之は海軍兵学校に入学。
真之は二年のときに一人だけの学術優等賞、卒業時は八十八人中の首席であった。海軍では首席の姓をもってその年次のクラスを呼ぶ。第十七期は秋山クラスとなった。
真之は試験のヤマをあてるのがうまかった。
真之曰く「過去の問題を見て、教師の癖をみているとヤマは当たる。教官というものは、癖から離れられないものだ。必要な問題はたいてい繰り返して出す。平素から教官の講義態度を――顔つきや説明ぶりを注意深く見ていると、何が出るかわかる」
「試験は戦いと同じだ。戦いには戦術が要る。戦術は道徳から開放されたものであり、卑怯もなにもない」
「物事の要点は何かをつかむ、要点をつかむことが大事だ」
要点を掴むには、過去のあらゆる型を調べる。――多くの事例をひとわたり調べ、そしてその重要度を考え、あまり重要でないか、または不必要と思われることは大胆に切り捨てる。――時間と勢力を、つかんだ要点に集中する」
「要点をつかむという能力と、それに集中して不要不急のものは思い切って切り捨てるということが何よりの秘訣だ」

明治二十六年、真之は「松島」の分隊士に任ぜられ、まもなく「吉野」の回港委員に任ぜられ、日清戦争時には「筑紫」の航海士に転じる。さらにその四か月後には「大島」へ配置が変わる。
それから水雷術練習所学生などを経、明治二十九年七月には「八重山」に移り、大尉に進級した。
明治三十年にはアメリカに留学している。真之はここでアメリカとスペインの戦争を目の当たりにする。後の日露戦争で実施されることになる「閉塞」(港口に船を沈めて敵艦が港から出られないようにすること)も真之が見たこの戦からきている。
三年の留学を終えて帰国した真之は明治三十三年、海軍軍政の中枢である軍務局大一課の課員に補任される。
続いて同年十月、常備艦隊参謀に就任。

そして海軍大学校の初代戦術教官となる。
真之は採点にあたって学生の答えが自分と違っていても、論理がとおって一つの説をなしていれば、それ相応の高い点を与えた。
教官が、自分の考え通りでなければ高い点数を与えないという採点をすると、学生達は自分で考えようとしなくなる。
真之に言わせると次のようになる。
「多くの戦史や各種の兵書をよく読んで、考え抜いた上で、これだ、と思うものが諸君の兵理で、それがたとえ間違っていたとしても、百回の講義で聴いたものを暗記しただけのものに比べれば、はるかにいいものなのだ。自分の研究で会得したものでなければ、実戦で役に立たない」
教えられたこと、決められたことしか考えられない人間を真之は嫌った。

明治三十六年六月二日、真之は八代六郎大佐の仲人によって青山家三女の季子を嫁に迎えた。
真之三十六歳、季子は二十一歳だった。
真之は兄好古同様独身主義者で平素から「たいていの人は妻子をもつと共に、片足を棺桶に突っ込んで半死し、進取の気性衰え、退歩を始める」と言っていた。
しかし七十六歳になる母のお貞のこともあり、嫁をもらったのだった。夫婦仲は円満だった。

日露開戦となった同年、真之は東郷を司令長官とする連合艦隊の作戦主務参謀に就任。
二月二十四日にはアメリカ留学中に学んだ「閉塞」を実践。計三回行われたが、これはいずれも失敗に終わった。
明治三十七年の黄海海戦では東郷艦隊は勝負には勝ったものの、殲滅させなくてはならない敵を逃がしてしまった。
そして明治三十八年五月十九日、ウラジオストックに向かうためにインド洋を横断してマラッカ海峡からシンガポールに出現したバルチック艦隊の消息が途絶えてしまう。
ウラジオストックへ向かう航路は日本海航路の対馬海峡か太平洋航路を選んで津軽海峡、若しくは宗谷海峡か。真之は迷う。
海軍軍令部は「日本海航路」の意見、司令部では「能登半島待機」の意見が大半であったが、そんな中島村速雄の「敵に海戦というものを知っている提督が一人でもいるならば、必ず対馬を通る」という説得で、意見は対馬航路に決定した。
五月二十七日、東郷艦隊はついにバルチック艦隊を発見する。
これを東郷艦隊は真之の考案した「T字戦法」と「七段構えの戦法」で殲滅するのだ。
敵艦発見の際に大本営に打電する電文の起草案「敵艦隊見ゆとの警報に接し、連合艦隊は直ちに出勤、之を撃滅せんとす」に真之が加えた次の文章が、今なお名文と語り継がれているものである。

「本日天気晴朗なれども波高し」









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